毎日同じ電車に乗って、
同じ人と顔を合わせて、
誰の話にも同じ相づちで、
どんな話にも同じリアクションで、
同じ表情を作って頑張っている。
そういう毎日が平凡で退屈だと思う人がいるかもしれない。
同じ事の繰り返しで、自分の周りの出来事が前進している気がしない。
朝起きればまた一日が来る。きっと過去のある一日かある一瞬を断片として切り取られて、そうやって同じパターンが繰り返し使われて、前へ一歩進んだと思ったらまた今来た道に引き戻されて、まるでやり直しをさせられているような、同じ場所でずっと足踏みをさせられているような徒労感。
そんな特別な事を望んでいるわけではない。刺激的な日々とか、人生で劇的な変化
が起きてほしいのではないけれど、このままで本当にこれで良いのかっていう不安が募る。
何事にも始まりがあって、終わりがある、そう信じることに抵抗はない。音楽のようにクライマックスに向かって盛り上がって、その後静けさがあって。そう、メリハリがある感じ。その方が気持ちもバランスが取りやすいし、自分自身のモチベーションをコントロールしやすいから。そういう曲の方が入りやすい。
でも実際には、小説のような起承転結が存在するのかって疑問に思う。物語のような事って、それは実は既に用意されているものだったりするんではないか。それは自分の力で創りあげていくものとは対極に在ったりして。
あまりにあっさりとして単純に聴こえるミニマルミュージックにはしばらく興味が湧かなかった。
けれどオスロでテロが起きて、
自分が行くはずだった時間に、向かうはずだった場所で、人が犠牲となった。自分は助かった。
自分が生きている意味を考えるようになって弾こうと思えるようになった。
雨は降って地面に落ちてしまったら、それは雨ではなくなるけれど、そのしずくがたまったものは小さな川となる。河口に来ると川としては終わりでも、それは海にとっての始まりであって、
そうやって地球上の水が循環しているように、生き方もそうなのかもしれない。
人は終わりがやってくる事に対して絶望しているようで本当は逆で、
もし終わりがなければ生きることができないんじゃないかと思う。
音楽も、終わりがあると分かっているからこそ演奏ができる。
終わりがあるからこそコーダがある。
だから、ミニマル・ミュージックを弾いてるとすごく不安になる。落ち着かなくなる。
楽譜の最初のページから弾いているのに、本当に曲の最初から弾き始めたのか分からなくなる。
曲の最後までたどり着いて演奏は終わるけれど、弾き終わってもそわそわしてしまう。
ミニマル・ミュージックのわずかな「ずれ」が、成長や新しい経験・知識を得た事によって今までのように自分自身や周りとうまく向き合えなかったり違和感を覚えたりする感覚を思い出させる。そのずれが誰にでも分かる程度のずれでなく、人によっては自覚できない微妙なずれだからこそ余計に苦しめていく。
テープやパソコンなど機械を使った音楽によって生まれたミニマル・ミュージックのはずなのに、
生身の人間の演奏によって繰り返される一音一音が心臓の鼓動に聞こえるのは、その演奏者や心臓の鼓動が永遠ではないことを、繰り返し音楽の中で訴えているのかもしれない。