フィンランドに来て、もうすぐで2ヶ月。
新しい環境に身を置く事で、また新たな試練や苦労があるだろうと覚悟はしてこの地にやってきたのだけれど、正直とても苦しい日々だった。
しかし、不思議なもので
悔しいという自分の感情と、それによって自分に力がついたのか、
なんとなくまぎらしたりせず、それなりに毎日やっている。
今までの自分は、自分に合わない存在とはそれなりの距離を保って生きて来た。
逃げたり避けたり遠ざけたりせず、だからといって自分の気持ちを偽って近づいたりはしなかった。それは適度な関係だと自分では思って来たけれど、あいまいで中途半端でずるい生き方なのかもしれない。
そういう自分に対してさらに圧力をかけるように何かを押し付けられ強要されると、悪気はないと分かってはいても拒絶反応を起こす。自身を隔離する事が、今まで大切にしてきたものや築いて来たものを守ろうとする、自分なりのやり方なのかもしれない。
それこそ、感情が不安定だったり気持ちが揺らいでいる時期なんて特に。
過敏な性格だから。
神経質なのかもしれない。
芸術と向き合っていれば感受性が鋭いからしょうがない。
など、理由を持って来て片付ける事はできる、けれどそれはこれ以上苦しまないための逃げにも思える。
友人と話していた事だけれど、感情がふわふわしたり気持ちに振り回されるかのようにコロコロ変わる事がある。それを無意味な事と片付けたりただの一時的な感情ととらえるのはもったいない事で、そういうプロセスこそ必要だと思っている。
気まぐれで宙ぶらりんにも思えるその感情は、後に地に足をつけて、自らの足で踏み出して歩いて行くための準備期間なのかもしれない。
そういう、感情がまとまらない事って必ずある事なのだと。でも無理に整理したりしないで、自然な状態の気持ちを少しの間だけで良いから大切にしたい。
落ち葉が落ちている場所は自然で、枯れた葉を人間が「落ちている様に」並べても出せない味がある。そういう無造作に散らばっている落ち葉のように、自分の心の中を必要以上にコントロールしない生き方が出来たら良いのだけれど。
音楽や生き方に対して、中身の追求ではなく、「どう見られるか、どう見せるか、どう伝えるか、どう受け取ってもらうか」という事を考える事を求められ、苦しい葛藤がある。
演奏者はパフォーマーなのだから、聴衆を楽しませて、楽しませる・満足させるには内容が伝わらなければ、と。
「伝わるように、分かるように」
何回も言われる。音楽で何をしたいか分からないと。
言われている事は間違っていなくて、きっとその通りなのだろう。
何がいけないと思われているのかもなんとなく分かる。
実際、伝わることと、伝わるように演奏する事は大きな違い。
伝わるように演奏している人の、心に響かない演奏が存在する。
人間同士も、分かりたいと思っているのに分かり合えない事がある。
自分の言った事が全く伝わらないこともある。
それは、じわじわと時間をかかる事だったり、色々な複雑な理由やその時の心境が交わったりしている。
音楽の中の、人間の心にあるような微妙な揺れや流れを、聴いている人が感じ取った時。
音楽は伝えるものなのかもしれない、くもった窓の向こうに見える景色だったり、届くようで届かない声だったり、ピントがずれているけれどなんだか味がある写真だったり、そういう良さ。気持ちがもやもやしても、気分転換でもしてごまかす事で、最後まで向き合わずもやもやしたこと自体を忘れてしまう。
表現者は、恥ずかしさなど捨てて、全てをさらけ出して最大限に表に出す。
果たしてそうなのかな。
表現すること自体を問うような気持ちで演奏する。
人前で演奏する事が大好きで何の抵抗も疑問もなく本番を楽しめる人が羨ましく映ることも。
彼らはきっと天性のパフォーマーで、自分はきっと向いてないのだろう。
ステージにあがって我を忘れるくらい自分の世界に入り込んで観客を巻き込むことが、出来ない。
俳優や音楽家、作家や画家は表現者として作品を発表するのに、自分を投影することは避けられない。それは自分を見せつけたり、自分を全面に押し出せば良いこととは違うはず、きっと。注目を浴びるのが怖いけれど表現者になった人。そういう人のインタビューはすらすら言葉は出てこないけれど、ひとつひとつの言葉にとても磨きがかかっているような。